「炎とともに一世紀」八幡(北九州市)
八幡製鉄所東田第一高炉史跡広場北九州市立いのちのたび博物館
八幡製鉄所東田第一高炉史跡広場
・北九州市立いのちのたび博物館
のロケーション
八幡製鉄所 東田第一高炉史跡広場
開館時間 9:00am-5:00pm
休館日 ・年末年始
入場料 ・入場無料
アクセス ・JR鹿児島本線「スペースワールド駅」から徒歩2分
展示の特徴 ・1901(明治34)年,日本初の本格的製鉄所として建設された「官営製鉄所」で,最初に火入れされた溶鉱炉。
・その後10回改修工事が行われ,1962(昭和37)年に現在の姿となりましたが,1972(昭和47)年にその役割を終了。
・老朽化により解体の危機に直面したが,1996(平成8)年,北九州市が高炉一帯を市指定文化財(史跡)に指定。
・現在は,史跡広場として,一般に開放されるに至ってます。
URL 北九州市のサイト

鉄鋼ができるまで
1.高炉
 高炉とは,鉄鉱石を溶かして,鉄を取り出すところ。
 高炉のなかには,鉄鉱石などの原料と,それを溶かす燃料のコークス(蒸し焼きされた石炭)が,交互に入れられます。そこへ熱風炉(高炉に林立する3基の白い塔)から出された約1000~1200℃の熱風を吹き付けて,コークスを燃焼,原料を溶かして,銑鉄を取り出します。
傾斜塔
鉄鉱石やコークスなどの原料,燃料を,地上から高炉の上まで運ぶ役割を果たす。
高炉鉄皮
1962~72年に操業していたとき高炉の外側。厚い鉄板で高炉を覆い,炉の中に高圧力をかけても壊れないようにした。
高炉の内部
高温になるため,耐火煉瓦が張りつめられている。
高炉内上部の様子
1962年に超高圧高炉という方式が,日本で初めて採用された。
2.出銑
 高炉から銑鉄を取り出す作業のこと。
 高炉から流れ出た銑鉄は,床に作られた溝を通って,鉄と不純物に分けられ,積み込み場所に向かいます。
出銑口
1400℃に及ぶ銑鉄を溶鉱炉から取り出すところ。
鋳床
出銑作業に携わる作業員の防護服は,アルミ製。鉄と不純物のスラグは,比重の違いを利用して,分別される。
ノロのかたまり
銑鉄とスラグが混じり合ったもの。東田第一高炉を整備するとき,高炉の中から出てきたもの。
3.銑鉄の運搬
 銑鉄を転炉へ運び出す役割をするのが,トーピード・カー。トーピードとは,魚雷のこと。形が似ていることから,そのような愛称が付けられた。貨車の中で,銑鉄から硫黄やリンなどの不純物を取り除く作業が行われる。
トーピード・カー
1930(昭和5)年,戸畑と八幡の間に,専用鉄道が敷設され,戸畑で取り出された銑鉄を,転炉がある八幡へ運搬した。反対に,八幡から戸畑へは,スラグや建設残土を運んでいた。ちなみに,機関車の製造元は,芝浦製作所と汽車製造。
4.転炉
 高炉から運ばれた銑鉄に,くず鉄や生石灰を混合させて酸素を吹き込み,粘りのある強い鋼材を作り出すところ。
転炉
重さが300トン以上に及ぶため,16のパーツに分解して,この東田第一高炉史跡広場に運び込み,再び組み立てられた。

北九州市立いのちのたび博物館
観覧時間 9:00am-5:00pm (入館は4:30pmまで)
休館日 ・年末年始
入場料 ・一般500円
・高校・大学生300円
・小・中学生200円
・未就学児は無料
アクセス ・JR鹿児島本線「スペースワールド駅」から徒歩5分
展示の特徴 ・生物の進化の道筋を,自然と人との両面から追究した博物館。
・「自然史ゾーン」と「歴史ゾーン」に大別されます。
・「自然史ゾーン」では,地球誕生からの自然と生命の歴史を,標本・化石・レプリカなどを使ってわかりやすく解説。
 ・なかでも,全長35mに及ぶセイスモサウルスの恐竜骨格は,圧巻です。
・「歴史ゾーン」では,北九州地域の歴史と生活の変遷を,原始・古代から近現代に至るまで,資料に基づいて展示。
・このサイトの目的は,経済史に関する博物館のフィールドワークなので,主に「歴史ゾーン」を紹介します。
URL http://www.kmnh.jp/
テーマ館
 北九州の歴史を,先史・原始,古代・中世,近世,近代の4つの時期に区分し,歴史資料,ジオラマなどを使ってわかりやすく紹介。
中世コーナーの見どころは,長野城合戦。戦国時代の豊前国は,豊後国の大友氏と,長門国の大内氏(大内氏滅亡後は毛利氏)それぞれの版図に挟まれ,現在の小倉南区あたりを治めていた長野氏は,幾度となく両勢力の侵攻を受けてきました。このジオラマは,1565(永禄8)年,大友氏の侵攻に対して,長野氏が山中に竪堀を築いた様子を描いたものです。
近世コーナーの入口に広がる城下町・小倉のジオラマ。手前が西曲輪(主に武家地),紫川を隔てた奥が東曲輪(主に町人地,現在のJR小倉駅周辺)を表しています。小倉城へのフィールドワークは,こちら
堀川の水運と艜船(ひらたぶね)
堀川は,遠賀川から洞海湾に向けて開鑿された全長約12kmの運河。1621(元和7)年に工事が開始されたものの一時中断,1751(寛延4)年に再開,11年後の1762(宝暦12)年に開通しました。艜船(画像左)と呼ばれる船底が平たくて,喫水が浅く,細長い舟を利用して,年貢米筑豊産の石炭(画像右)を若松へ廻送しました。艜船による石炭輸送は,明治中期に最盛期を迎えましたが,1891(明治27)年に筑豊興業鉄道・直方~若松間(現在の筑豊本線)が開通すると,次第に衰退し,1939(昭和14)年には消滅しました。
探究館
 北九州地域で営まれた人々の暮らしを実感できる大型の展示空間です。
昭和30年代の社宅
1950(昭和25)年当時に建築された八幡製鉄所の社宅をモデルに復元されたもの。夫婦と子ども2人の4人家族が,玄関・台所と2間の和室で構成される間取りで暮らしていた「ある日」の光景を再現しています。
その「ある日」とは,西鉄ライオンズ読売ジャイアンツの日本シリーズ第6戦が繰り広げられた1958(昭和33)年10月20日
さきに3連勝した巨人は,王手を早々にかけながら,第4戦,第5戦と,西鉄のエース・稲尾和久投手を打ち崩せずに足踏み状態。対照的に,稲尾投手が第5戦にシリーズ史上初となるサヨナラ・ホームランを放ち,追撃の態勢を整えていました。迎えた第6戦は,舞台を平和台から後楽園に移すも,西鉄は勢いを落とすことなく,中西太選手の先制ホームランと稲尾投手の完封で勝利。対戦成績を3勝3敗の五分に戻しました。
翌日,この一家が歓喜の声を上げたのは,想像するに難くはないでしょう。
西鉄ライオンズの歴史と,1958年日本シリーズの戦績・試合結果は,「埼玉西武ライオンズオフィシャルサイト」で閲覧できます。
栄光の歴史「伝説の西鉄ライオンズ」
日本シリーズ戦績 1958年
 (リンクに関しては,株式会社西武ライオンズ事業部のご承諾を頂いております。)

2009年7月18日現在
フィールドワーク・ホーム