論文18
「江戸の土地資産市場と不動産抵当金融 ―築地・鉄砲洲地区における町屋敷売買と家質の事例―」
九州大学経済学会『経済学研究』第83巻第2・3合併号(2016年9月),31~60頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
論文17
「明治後期における三菱合資会社の不動産事業」
『三菱史料館論集』第17号(2016年3月),81~97頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 19~20世紀転換期における三菱合資会社の不動産事業について概観を考察するとともに,1909年の地所課「収支証書」を分析してその収支状況の実態に迫ってみた論文。本稿のファクト・ファインディングスとしては,以下の2点が挙げられる。
 第1に,1900年代後半期における不動産事業の資産収益率が7~10%で推移していた点である。この資産収益率を求めるにあたって,収益額・資産額双方とも東京地区と新潟事務所の土地家屋が含まれていたが,当該期間における不動産事業の主力は東京地区にあったので,この数値は都市不動産の利益率を反映したものであると言って良い。
 第2に,不動産事業の発展期において,1909年の地所課は,不動産の収支に対してはもちろんのこと,不動産以外の収支にも携わっていた。前年の本社職制改正で,地所課の取扱は「東京市内ニ於ケル社有地地所家屋ノ賃貸営業」と規定されていたにもかかわらず,実際にはこれを大きく逸脱していた。
論文16
「近世・近代の土地市場分析」
『季刊 住宅土地経済』第96号(2015年4月),28~35頁。
 本稿は,2013年度に提出した博士論文「近世・近代都市の土地市場分析――江戸・東京における不動産収益率の推移と賃貸経営の変化」を踏まえ,2014年10月28日に開催された第188回「住宅経済研究会」(東京国際フォーラム)において報告した内容の要約である。
論文15
「明治期東京の不動産賃貸経営における三菱の役割と意義 ―三井との比較において―」
『三菱史料館論集』第16号(2015年3月),163~172頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿は,ここ数年研究してきた江戸・東京の不動産経営史の分析に対する一定の総括と展望を語るものであり,とくに明治期の不動産賃貸経営において三菱が果たしてきた役割と意義を,近世期から江戸・東京で行われてきた三井の不動産賃貸経営と比較して述べることを目的とする。
 こうした分析視角を持つに至った理由は,都市の土地不動産経営という分野における近世から近代への連続性と断絶性(非連続性)を検証するためである。すなわち,近年の日本経済史研究では,伝統的な「日本資本主義発達史」の域を出るべく,近世から近代への移行期を含めた日本経済を通観する視点が求められているが,都市不動産経営史においても,近世都市における不動産賃貸経営のいかなる事柄が近代に継承され,代替されたのかを明確にする視野が重要である。
 たしかに,近世の「町屋敷経営」は幕末をもって終わりを告げ,明治維新後に新たな法律や土地制度が整備された結果,近代の「不動産賃貸経営」が成立した。この点は森田貴子によって詳細な分析が行われてきたが,維新期には近世以来の土地投資と不動産経営のメカニズムが全て否定されてしまったのだろうか。近世町屋敷経営後の三井における東京所有地集積の実情,あるいは三菱による近代オフィス(貸事務所)形態以前の貸長屋経営に対する分析を行うことで,不動産賃貸経営における近世から近代への移行がいかにして実施されたのか,確認していくことが重要である。その際,明治期の三菱における不動産経営の役割とは一体何だったのか,検討する余地があろう。本論文では,その意義を,丸の内と神田三崎町の官有地が1880年代後半期の第1次企業勃興期という時期に民間土地資本として払い下げられた点に求め,都市の近代化について考えたものである。
論文14
「世界文化遺産登録に向けた鹿児島市の観光まちづくり ―鹿児島駅を起点とする交通ターミナルの課題と提言―」(島津忠裕共著)
『歴史地理学』第57巻第1号(2015年1月),72~87頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿の目的は,ユネスコ世界文化遺産登録を控えた「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のうち,複数の構成資産が存在する鹿児島市において交通ターミナルの課題を指摘するとともに,それを解決する手段として,2次交通のターミナルとしてのJR鹿児島駅の役割に着目し,同駅を起点として展開していく「新しい観光まちづくり」を提言することにある。
 本稿では,筆者の一人である(株)島津興業副社長・島津忠裕(島津本家33代)が,2015年に世界文化遺産の登録をめざす「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつである「旧集成館」を管理し,観光事業による地域経済の発展をめざす立場から,世界遺産登録をめざした新しい観光まちづくりを提言する。それとともに,いま一人の筆者である鷲崎俊太郎が島津分析のアカデミック・サポートを行い,問題提起と総括を試みてみた。
論文13
「江戸・東京における不動産経営史の総括と展望」
九州大学経済学会『経済学研究』第81巻第4号(2014年12月),323~330頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿は,ここ数年研究してきた江戸・東京の不動産経営史の分析に対する一定の総括と展望を述べたものである。
 近世の利子率に関する情報は,従来からきわめて不十分だったが,一連の分析結果によって江戸・東京の不動産収益率を17世紀末期から20世紀初頭まで時系列的に考察することが可能となった。この収益率は,従来の利子率データ全体のなかに,以下のとおり位置づけられる。
 第1に,不動産投資は,投資対象という点で従来の貸付や農村の証文貸,大名貸とは異なる性格を有していた。
 第2に,利貸経営と不動産経営は,地主・商人にとって投資期間という点で異質の資産運用だといえる。貸付・家質に対する投資期間は短期であったが,土地不動産に対する投資期間は,長期に及ぶものだった。ゆえに,短期・長期という投資期間の相違を捨象し,金利差だけに着目して利貸経営と不動産経営のリターンを比較してしまうと,単に低利だという理由だけで不動産経営に過小な評価を下してしまうおそれがある。
 第3に,明治前期の三井東京所有地における不動産収益率を,他の利子率と比較し近代の金融資産市場に位置づけてみると,金融資産の収益率全体は裁定取引によって均等化していた。したがって,たとえ明治前期の三井組が積極的な不動産経営を示さなかったとしても,当時の東京市中におおける定期預金や貸付と同程度の利子率を不動産経営から獲得できていた。他方で,東京府市街地での不動産経営は,従来言われているほど楽観的なものでもなかった。換言すれば,東京市中における不動産収益の平均像は,1870~80年代の時点で過大評価を与えることはできないが,低利回りだったと過小評価する必要もなく,しかも他の金融商品と裁定関係にあったとみて相違ない。
 以上が,近世・近代の不動産収益率に対する総括である。
論文12
「三井における東京の不動産経営と収益率の数量的再検討:1872~1891」
九州大学経済学会『経済学研究』第80巻第2・3合併号(2013年9月),17~51頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿の目的は,明治前期における三井組東京所有地の不動産収益率を分析して,不動産経営の実態を再検討する点にある。
 従来の研究は利回りを求めるにあたって改正地価を土地資産の評価額として使用してきた。しかし,改正地価は地租の課税標準として地券に記載された法定地価で,土地資産を取得するために費やした期首の資産価値ではない。不動産投資における収益・利益の定義を,得たものから元本を控除した残りが当初の何%であるかと規定する以上,投資努力のパフォーマンスを表す不動産収益率は,一定の期間に資産の保有者へ支払われるキャッシュフローを期首の資産価値で割ったものである必要がある。
 以上の定義に基づき,三井東京所有地の不動産収益率を再計算してみた結果,不動産経営として活用された地面全体では,1875年に5%台を記録し,91年には9%台にまで到達した。このように収益率が上昇した背景には,収支フローと資産ストックの両面からもたらされた2つの事実が存在していた。収支フローに関しては,地代の増収と公租賦課の減額による利益の増加が挙げられ,資産ストックについては,沽券金高や実際の土地購入代金を期首の資産価値として使用したことで,改正地価で配慮されなかった建物の利潤を不動産収益率に反映できるようになった。
 とはいえ,三井の東京所有地は合計200か所弱にも及ぶ集合体だったために,その不動産収益率は,土地の購入年代によってその推移を異にした。徳川期からの所有地では幕末・維新期と連続的であり,明治期になって購入された土地の多くは,貸付先からの流地であったために,不動産収益率は2桁を超える高い推移を示していた。結局のところ,全体の収益率はこれらの平均像だったと解釈できる。
 最後に,不動産収益率を他の利子率と比較して同時期の金融資産市場に位置づけてみたところ,定期預金の金利や貸付金利の動きとパラレルな関係にあった。この結果,明治前期における金融資産は裁定取引によって均等化していく範囲内にあったといえる。
論文11
「江戸の町屋敷経営と不動産収益率の長期分析:1775~1872―三井家両替店請40か所のケーススタディ―」
九州大学経済学会『経済学研究』第79巻第4号(2012年12月),95~125頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿の目的は,徳川後期における三井江戸所有地の不動産収益率を分析し,不動産経営の実態を解明することにある。三井家は,幕府から御為替御用を引き受けたが,それに伴う膨大な町屋敷を担保として供出しており,18世紀初頭には総資産の46%を不動産で占めるに至った。これまでの研究では,吉田伸之が江戸町屋敷経営の衰退原因として,度重なる大火と天保の地代店賃引下げ令の影響を指摘してきたが,本稿の分析によれば,町屋敷経営の大火に対するリスクは,三井家の大元方を通じて部分的にヘッジされており,地代店賃引下げ令についても,町屋敷経営に大きな影響を与えたといえるほどの効果は観察されなかった。他方,三井家町屋敷経営のインカム収益率は,18世紀後半~19世紀初頭に4%台を誇り,18世紀前半期のそれと連続的に推移していた。1820年代から低下傾向を示し,維新直前には2%前後まで半減したが,大元方が担保価値を維持すべく,町屋敷経営に対して資金を提供し,低減傾向にあった収益性を下支えしていた姿勢は,積極的な経営志向を持っていたという意味で評価に値するといえる。
論文10
「歴史地理学-日本経済史間の学際的研究史―趨勢と課題―」
『歴史地理学』第54巻第1号(2012年1月),58~67頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿は,第54回歴史地理学会大会シンポジウム「近代の歴史地理:再考」(2011年6月26日開催,於山口大学)における報告のひとつであり,日本経済史の立場から,近代歴史地理学と社会経済史との学際的関係の意義を検討していくことを目的とする。とくに,1960年代後半~80年代前半における梅村又次と黒崎千晴との交友関係に焦点を当て,そこから我々後進の研究者に残されたメッセージを探ってみたいと思っている。具体的には,第1に,労働経済学を専門とし,『長期経済統計』の監修に携わってきた梅村が,なぜ,いかにして研究を日本経済史にシフトさせ,かつ歴史地理学を重要視してきたのかをまとめ,第2に,黒崎の足跡を少し振り返りながら,社会経済史学会で果たしてきた貢献を検討し,第3に,梅村・黒崎がともに携わってきた数量経済史研究会におおける歴史地理学と社会経済史との学際性について考察を行う。
論文9
「日本土地市場史・不動産経営史研究の趨勢と課題―徳川~明治期の都市を中心に―」
九州大学経済学会『経済学研究』第77巻第1号(2010年6月),121~141頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿では,主に徳川~明治期の都市を対象とした土地市場や不動産経営に関する研究を振り返りつつ,今後の課題について言及することを目的としている。ただし,それを客観的に評価するには,農村におけるその実態をも正確に把握し,都市の事例と相対的に比較できる視野を持つことが重要である。そこで,最初に徳川農村の土地市場史・不動産経営史研究を整理し,続いて都市についてそのサーベイを行っている。
論文8
「徳川後期の宿場町における土地市場と不動産経営―取手宿本陣染野家のケーススタディ―」
『歴史地理学』第51巻第4号(通巻246号)(2009年9月),23~46頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 本稿の目的は,下総国取手宿本陣・染野藤左衛門家を事例に,徳川後期の町場における土地賃貸市場と地貸店貸経営について,地代の収入と決済構造の側面から分析することにある。
 水戸街道と利根川の交差する取手宿では,17世紀末期から六斎市や河岸場が相次いで成立した。18世紀中頃には銚子からの肥料や水産物の移入が始まり,銚子醤油業とは原料小麦を仕出し,醤油を仕入れる関係にあった。こうした地廻り市場の拡大は,近在・他国の商人に対して多くの商業機会と労働機会を供与してきた。取手宿でも,18世紀後半から借地・借家の需要が高まり,同宿の本陣兼名主の染野家も,不動産経営を開始した。
 本稿の第1の発見は,町場の土地収益性についてである。町場の地代は,18世紀後半まで,土地利用者の収入に比すれば微々たる金額に過ぎなかった。この点が,周辺農民を町場に引きつけ,土地需要を誘発させる要因のひとつとなったと解釈される。ところが,町場の土地供給量には限界があるため,生産性の低い商売渡世は淘汰され,生産性の高い商売渡世が町場に進出してくる。ゆえに,土地収益力は上昇し,それに伴って地代も引き上がったわけである。とりわけ19世紀に入ると,取手宿の地代は,物価や賃金と比較して相対的に上昇する傾向にあったと推定される。このことから,町場における生産活動は,その要素として土地への配分を重視するようになったと判断される。
 第2の発見は,決済構造の柔軟性についてである。染野家は,1800年と1828年に大規模な地代改定を実施したが,これは単に賃上げだけを目的としたものではなく,決済構造の整理を伴っていた。1800年の地代改定では,盆暮れの節季払いという決済構造を定着させた。染野家は,しばしば地借と商品取引を行い,買掛金を計上していた。これらの商品は節季に決済されていたので,地代金との相殺が可能だった。1828年の地代改定では,決済を節季払いから月払いに変更した。物価上昇期になると,借主は当座の資金を少しでも留保しておくために,地代を分納したほうが望ましく,貸主の染野家もそのほうが地代滞納のリスクを回避できたからである。このように,染野家の賃貸経営では,取手周辺の景気動向や貸主・借主双方の生計事情に応じて,地代の決済方法を柔軟かつ大胆に転換させることが可能だったのである。それとは対照的に,江戸の町屋敷経営では,地主が積極的にその経営手腕を発揮する機会を持ち合わせていなかった。
 以上より,徳川後期の土地市場と不動産経営は,江戸とその近郊の町場との間で,実に対照的な動きを示していたのではないかと結論づけられる。
*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590)の助成を受けたものである。
論文7
「三菱における東京の土地投資と不動産経営:1870~1905年」
『三菱史料館論集』第10号(2009年3月),25~70頁。
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿の目的は,明治期三菱における東京の土地投資と不動産経営の収支を明らかにする点にある。
 海運業分離前の三菱(1870~85年)は,西南戦争の御用船運航収入による多大な利益を受け,岩崎家の資産運用の一手として東京の不動産投資を積極的に展開した。地所家屋が家産として位置づけられた以上,内方がその管理を担い,一方で岩崎家の私邸として使用するとともに,他方で貸地貸家経営を手掛けるようになった。その収益自体は微細なものに過ぎなかったが,続く三菱社時代の不動産経営に連続するものとして評価される。
 三菱社時代(1885~93年)における不動産投資の特色は,短期間に,特定の町の地所を,集中的に買い集めた点にあった。ただ,1889年ごろを境目として,その方針は相違する。その前半(1885~89年)の不動産投資は,創業期から継承した深川・京橋越前堀の土地を拡張し,海運業・倉庫業との関係を維持した。しかし,企業勃興期のインフレーションに伴う地価や人件費の高騰,硬直的な収入に加えて,家屋税導入による増税,コレラの発生に伴う衛生対策の必要性は,従来の木造貸長屋経営に多くの課題を突きつけた。
 これに対して,後半(1889~93年)の投資は,広大な官有地の払下げを受けた市街地開発を特徴とした。芝愛宕町では,今日の慈恵医大と同付属病院への貸地経営に特化し,高収益率を記録したが,三菱の不動産経営には,なおも安全で快適な居住空間の創造が求められた。神田三崎町の不動産経営は,愛宕町での貸地経営を継承しつつ,煉瓦積みの木造家屋というハイブリッドな建築様式を試行し,これに火災保険をかけた点で,丸の内開発のパイロット・プロジェクトだったと位置づけられる。正当な利益獲得とともに,自らの手で生活関連社会資本を構築すること,これが三菱の都市不動産投資に対する意義だったと主張される。
論文6
「徳川前期の町屋敷経営と不動産投資―江戸小舟町・神戸家のケーススタディ―」
『三田学会雑誌』第101巻第2号(2008年7月),65~90頁。
The Real Estate Business and Investment in Edo: 1695-1754 --A Case Study of the Kando Family--
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿では,犬山屋神戸家が徳川前期の江戸に所有した地面を事例として,町屋敷経営の収支構造を解明し,商人資本による不動産投資の意義を検討した。その結果,当該期の町屋敷経営は黒字基調にあったものの,地面に対する資産評価は,その土地収益性に比して過大に下されてきたため,資産利子率は低率かつ低減の方向性を示した。このことから,商人は,町屋敷という都市不動産に対して資本利得を期待していたことが明らかとなる。
In this study, as a case study on land ownership by the Inuyamaya Kando Family in the first half of the Tokugawa period in Edo, I clarify the balanse structure of the townhouse (long and narrow wooden row houses) management, considering the significance of real estate investments by merchant capitalists. I indicate that as land assets were overvalued vis a vis profits that could be derived from the land, asset interest rates were low and were trending lower, whereas townhouse management during said period had a tendency to be profitable. From this, it is clear that merchants expected to reap capital gains on their urban real estate investment represented by the townhouses.
*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590),および一橋大学21世紀COEプログラム「社会科学の統計分析拠点構築」の成果の一部である。
論文5
「江戸の土地市場と不動産投資:収益還元法による地代・地価分析」
『社会経済史学』第73巻第2号(2007年7月),25~40頁。
(この論稿のPDFは,九州大学学術情報リポジトリ"QIR"の中にあります。)
 江戸の町屋敷を事例に,実質地価の決定構造とその推移を分析し,その長期金融資産としての安定性を再検討した試論。従来,徳川都市の土地市場研究は,土地の収益性と資産性を切り離して議論したため,その鑑定評価を明示できなかったが,本稿は両者の関係を重視して沽券地の実質地価を求め,その変動要因をマクロ経済に位置づけた点に,最大の特徴を有する。
 本稿で新たに発見した事実は,以下の2点である。まず,18世紀の土地市場では,実質地代が低下したにも関わらず,実質地価の上昇が展開された。これは,低金利政策と貨幣供給の増量,商品取引に対する貨幣需要の減退といった経済環境が土地不動産への資産選択を活発化させたからである。対照的に,19世紀の土地市場では,利子率が一層低下していたにも関わらず,実質地価は暴落した。この要因は,貸手の商人・地主が,土地収益性を,表店でなく裏店のそれ程度と過小に評価したことに拠る。
 以上の観察結果は,徳川都市の土地不動産がリスクと鉢合わせの投機的な長期金融資産たりえたことを示唆するものである。
*本稿は,平成16~18年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16・9590)の成果の一部である。
論文4
「明治初期の横浜居留地市場と内外商間取引」
『三田学会雑誌』第99巻第4号(2007年3月),239~264頁。
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿の目的は,生糸輸出市場と繊維品輸入市場を,内外商間取引の結合性と双方向性という視点から検討する点にある。幕末・明治初期の生糸輸出市場では,低価格糸を中心に内外商間で安定的な取引関係が見られていた。他方で内商は,そのような外商から輸入繊維品を購入し,国内の商人へ信用性の高い外商を斡旋する役割を果たした。このような内外商間取引の結合性と双方向性は,両者間に相互信頼が構築されていたことを示唆するといえる。
論文3
「幕末期における商人移動の人口地理学的分析
―横浜開港に伴う豆州下田欠乏品売込人の転入経緯と世帯構成の変遷―」
『歴史地理学』第44巻第2号(通巻208号)(2002年3月),5~24頁。
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿は,横浜開港場に移住した商人の転入経緯を再検討する試みとして下田商人を採り上げ,下田側の日記や諸史料,横浜側の人別帳や人名録を使用して彼らの移住経緯を追跡調査し,商家における従業員の雇用の出身地別相違が維新期までの居留地貿易に及ぼした影響を検討することを目的とする。下田商人は開国後,欠乏品売込人に任命されて外国人に薪水・食料・塗物などを販売する役割を担ったが,開港によって横浜へ移住して貿易活動を行い,重税と津浪で疲弊した下田の復興に尽力した。しかし対外需要が塗物でなく生糸・茶にあるとわかると,一方ではその産地出身の従業員を雇用して維新期まで貿易商人の中枢に進出し,他方では塗物輸出に固執して下田出身の奉公人を採用した結果,撤退を余儀なくされた。つまり,幕末から明治初期にかけて横浜商人の中枢に位置するために,流通面に限らず労働力の面でも生糸や綿製品の産地と密接な関係を築く重要性が明らかになった。
論文2
「近世末期絹織物業中心地の人口移動分析
―武州多摩郡八王子横山宿におけるケーススタディ―」
『社会経済史学』第66巻第6号(2001年3月),25~45頁。
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿の目的は,武州多摩郡八王子横山宿の人別送状と宗門人別書上帳を利用して,近世末期関東地方における農村工業化中心地の人口移動分析を通じて町場における人口の転出入の特徴を明らかにし,同時に絹織物業産地の中心立地と人口集積の関係を検討することにある。絹織物産地中心地の人口趨勢は,農村工業の発展と並行して停滞期・成長期・安定期に3区分される。成長期には近距離周辺農村の土地持世帯を吸収し,上州・武州の絹織物産地から機業関係者を転入させたが,安定期になると転入に関してはその目的の距離への依存度が低下し,転出については江戸から相対的自立化を図り,旅籠屋の従事者が他の宿駅に移動する傾向が発生した。つまり,八王子では農村工業化によって宿場町から市場町へ空間システムの代替が達成された。そして,開港以前に町場の成長が見られた産地は,在郷町を中心に周辺農村を組織した絹織物産地でのみ可能だったことが明らかになった。
論文1
「天保期八王子横山宿の人口移動」
『三田学会雑誌』第92巻第3号(1999年10月) ,137~170頁。
(この論稿のPDFは,一橋大学機関リポジトリ"HERMES-IR"の中にあります。)
 本稿は,宗門人別書上帳と人別送状の照合という作業を通して武州多摩郡の町場・八王子横山宿における天保期の人口動態を考察し,地理学的側面から当時の移動人口が所有持高や職業構成など町民の階層面に与えた影響を検討することを目的とする。八王子では世帯をあげての引越転入が高い割合を示しており,自由な労働市場の存在が高い人口流動性を支えていた。彼等の出身地は関東一円に分布したが,相対的に甲州道中を横軸とした東西間の移動よりも脇往還を縦軸とした南北間の移動のほうが活発であり,八王子が北関東と南関東を人口面で繋いでいた。他方で,同宿では天保期以前から居住する土地持世帯が絹織物業,米穀業などで仲間を形成して新規参入を規制していたことから,八王子は他方で雑業化した無高の転入者が江戸を最終目的地とする中継的役割を果たしたことが明らかになった。