博士学位請求論文
「近世・近代都市の土地市場分析 ―江戸・東京における不動産収益率の推移と賃貸経営の変化―」
慶應義塾大学大学院経済学研究科,2013年度。
 本論文の目的は,近世・近代日本における都市の土地市場と不動産経営について,江戸・東京を事例とした不動産収益率という観点から長期時系列的に分析し,その意義を検討する点にある。分析対象となる期間は,17世紀末期から20世紀初頭までの200年余である。

 土地は労働・資本とともに生産要素の1要素であり,その生産力や収益性は古来より経済学における最もオーソドックスかつポピュラーな研究テーマだった。それにも拘らず,日本経済史において,土地研究は従来からその制度史的側面の分析に偏重してきたため,土地の生産要素としての市場史的側面や,その資産運用をめぐる不動産経営史としての議論は看過され続けてきた。また土地生産力に関心が集まったとしても,その大半は農村を対象地域とした研究に限定されており,都市の土地生産力・土地収益性を体系的に検討してきた研究はほとんど無かった。
 本論文の特徴は,土地市場における不動産収益率と他の経済指標との比較というマクロ的視野と,土地不動産を運用する地主の経営行動を検討するミクロ的視野を兼ね備えた点にある。前者に関しては,都市の土地価格がファンダメンタルズ・モデル(地価を将来地代の割引現在価値と考えるモデル)で当時どこまで説明できるのかを検証し,不動産収益率の長期時系列的推移を考察することで,その結果を近世・近代の金融資産市場に位置づけてみる。また後者においては,近世前期の犬山屋神戸家,近世後期~明治前期の三井家,明治期の三菱という3時期・3主体の不動産収支を分析したうえで,各々が地所家屋経営を展開した意義について検討していく。以上の2つの視点を近世から近代まで通して分析し,土地市場史・不動産経営史における両時代の連続的側面と断絶的側面を明確にするのが,本論文におけるいまひとつの特徴である。

 分析を行うにあたって焦点となる課題を挙げると,以下の3点が浮上する。
 第1に,近世・近代を通じた都市における地代・店賃や不動産経営の収支に関する長期時系列データが揃っていない。日本の経済発展に対する長期的な実証分析は,人口史,産業史,物価史,金融史,財政史,貿易史などの分野でめざましい成果を示してきたが,土地不動産においては,地代・家賃といったレント情報の入手困難性という問題も手伝って,上述の分野ほど研究が進捗していない。さまざまな長期時系列データの整理とそれに基づく実証分析が行われてきたなかで,要素市場における土地不動産史研究の蓄積は急務とされる。
 第2の課題として,近世・近代を通じて長期時系列的に推計された江戸・東京の不動産収益率が当時の国内金融資産市場において果たしてきた役割を検討する必要がある。そのポイントのひとつは,近世都市の沽券金高が地代を収益還元した金額となり得ていたのかを検証する点であり,いまひとつは,不動産収益率の長期時系列データを徳川期や明治期の金利データと比較しながら,金融資産市場におけるその推移と役割を相対的に位置づけていく点にある。
 第3の課題は,都市の土地不動産経営という分野における近世から近代への連続性と断絶性の検証である。すなわち,近世都市における不動産経営のうち,近代に継承された側面,代替された側面を明確にする視野が重要である。

 以上の論点を念頭に,本論文では5つの章を設けて江戸・東京の土地市場と不動産経営に関する実証的な分析を行った。
 第1章では,元禄~宝暦期に名古屋出身の材木商・犬山屋神戸家が日本橋小舟町に所有した地面を事例として,家守が報告した原史料からその町屋敷経営の収支構造を解明し,商人資本による不動産投資の意義を検討した。
 第2章と第3章は,近世後期の土地市場と不動産経営を考察している。とくに第2章では,日本橋・京橋地区の町屋敷を事例に,収益還元法から町屋敷の収益還元地価を求め,それと実際の土地売買価格とのずれをどのように説明するかを検討してみた。第3章では,近世後期における土地不動産の経営構造とその収益率の推移を,三井両替店請40か所を事例に解明した。
 第4章と第5章では,近代都市・東京を分析対象とした。第4章では,明治前期における三井家の不動産経営について,近世の町屋敷経営との連続的側面に着目しながら,その収益率を個別の所有地ごとに求めた。第5章では,三菱を事例に明治中~後期における東京の土地投資と不動産経営を解明し,丸の内のオフィス経営へと至った三菱の不動産事業の意義を検討してきた。
 第1~5章の分析結果を通じて,最後に江戸・東京における土地市場の構造的特徴,不動産収益率の長期的推移と要素市場におけるその位置づけ,財閥による土地投資と不動産経営の意味を論じ,本論文全体の結論とする。

 第1に,都市の不動産投資は,投資の対象と期間という点で従来の貸付や農村の証文貸,大名貸とは性格を異にする。証文貸や大名貸は家計への消費金融の要素を含む貸付を対象とし,その投資期間も数か月から1年という短期であったが,不動産投資は土地建物という生産要素に対する投資行為を対象とし,その投資期間も50年から100年以上の長期に及ぶ。ゆえに,短期・長期という投資期間の相違を捨象し,金利差だけに着目して両者のリターンを比較してしまうと,低利という理由のみで不動産経営を過小評価するおそれがある。貸付や家質は土地不動産の担保価値が保証されている前提のもとで成立しうる商業金融であるから,不動産収益率は貸付や家質の利率決定に対して基準値や参考値となっていた可能性が高い。そう考えると,地主・商人による利貸経営と不動産経営との資産選択は,主要な経営か,副次的な経営かという判断基準に留まるものではなく,短期と長期という視点を伴った結果ではなかったかと考えられる。
 ただし,不動産収益率と貸付利子率との間に密接な関係があったとしても,両者の変化率の推移には数十年間の時間差が生じていた。とくに,大名貸と質入の利子率がともに18世紀後半から低下しているのに対して,本分析の不動産収益率が大きく低下し始めるのは19世紀前半からであった。この時間差は,大阪・江戸いずれの利子率であるかに依拠していたといえる。
 1820年代以降における土地収益力の低下は,要素市場に対して以下の影響をもたらした。ひとつは,江戸市中の商業・サービス業者における所得の要素分配に大きな変更を与えたと推測される。物価上昇による不動産収益率の低下,および実質地代の停滞と実質賃金の下落は,資本から所得を得ている人々に多くの所得が回り始めた事実を示唆する。江戸市中における資本は建設用の資材や取扱商品の在庫を指示するので,その生産地である地方・郡部・農村に対して江戸市中の所得は配分されたといえる。いまひとつとして,不動産経営に限らず,金融資産の利子率低下は,利子所得を生み出す魅力の相対的減退を招いたはずである。それに加えて,19世紀前半に町屋敷の実質地価がファンダメンタルズ・モデルで説明できずに過小な土地評価額しか受けなかったことは,おそらく資産所得としての魅力が土地不動産に備わったことに繋がる。この分析は今後の課題となるが,土地不動産は18世紀末期から19世紀前半期にかけて投資から投機の対象に変化したのではないかと想像される。

 第2に,明治前期の不動産収益率を近代の金融資産市場に位置づけてみると,不動産収益率の推移は,日本銀行本店の公定歩合や,東京市中における定期預金や貸付金利の動きとパラレルな関係にあった。つまり,明治前期における金融資産の収益率は裁定取引によって均等化していたといえる。他方で,東京府市街地での不動産経営は,公債・株式と比較しても有利な利回りを得られる投資先といえるほど楽観的でもなかった。三井東京所有地の不動産収益率がそれより上回っているとはいえ,80年代後半でも年利8~9%台の水準にあった。したがって,不動産と公債・株式の資産価値も裁定取引によって均等化していく範囲内にあったと考えておいたほうが良い。

 最後に,近世・近代都市の不動産経営は,明治維新期における江戸町制の廃止によって市街地の土地支配形式に変化を見たものの,地主が賃借人から地代・店賃を受け取り,租税と普請・修繕費を控除した残金を利益にしていたシステムは,近世の町屋敷経営と基本的に変わらなかった。こうした「在来型不動産経営」に変化の兆しが生じ始めたのは,1880~90年代である。本論文ではそれを不動産収益率という投資パフォーマンスの側面,および財閥のフィランソロピーという立場から接近してみた結果,地税減少によって費用面を抑制しようとしても,「在来型不動産経営」を継続する限り,土地収益力の上昇がそれ以上見込めないという事実が判明した。
 単位面積あたりの土地生産性を拡大させるためには,もっと容積率を向上させ,まとまった土地の上に,石造・煉瓦造,高層建の洋風建築が求められた。さらに,室内照明に電灯を使用し,電話の通話も可能で,焼失のリスクを回避するために建物に火災保険を掛けた。このように,欧米の建築技術や住宅供給システムを取り入れて市街地の高度利用を図る不動産経営を「近代型不動産経営」と定義するならば,そうすることによって「在来型不動産経営」を大幅に上回る土地生産性やサービス業の充実を確保できた。「近代型不動産経営」が誕生するためには,ある程度近代サービス産業が普及し,テナントとして入居できることを前提としていた。したがって,企業勃興期後の1890年代から東京における土地不動産の近代化・都市化が始まったといえる。このような「近代型不動産経営」によって土地の集積性を高め,公共社会資本を充実させるためには,ある程度の土地面積を誇る物件が必要となる。したがって,東京市街地の旧武家地である官有地の払下げという事態を日本の近代化や都市化にどう位置づけるかは,非常に重要な問題だといえる。実際,旧丸の内・神田三崎町練兵場の払下価格は,高島炭鉱,長崎造船所のそれを遥かに上回る金額であった。明治前期における官営事業の払下げは,「殖産興業」的産業政策という明治政府の意図に対して,主として工場・鉱山の民間設備投資といった側面に関心が寄せられてきた。しかし,近代日本の民間資本形成という点では,土地資本の供給,とくに徳川幕府や大名から無償で接収した東京の広大な旧武家地がどのように民間の土地資本として享受されたのかに,我々はもっと関心を払うべきであろう。
 ただし,「在来型不動産経営」から「近代型不動産経営」への転換が徹底したからといって,東京が欧米型の近代都市に生まれ変わったのではない。明治期以降実施された東京の都市計画は,旧町地の比較的小さい規模の土地の統合や,小地主の整理は実行できなかった。そのために,建物の高層化は実現できたものの,建蔽率・容積率とも低い雑居ビルが櫛比・林立することになった。したがって,現在でも大都市における生活関連社会資本の整備の立ち後れが著しい原因は,江戸の町地が沽券地単位で売買された結果,地権者も細分化されたことにあるといってよい。