「くんちと焼き物の城下町」唐津
唐津城からつ曳山展示場旧高取邸周辺案内
唐津城・からつ曳山展示場
・旧高取邸のロケーション
唐津城
開館時間 9:00am-5:00pm (入館は4:40pmまで)
休館日 ・12月29日~12月31日
天守閣観覧料 ・大人400円
・小人200円
※「唐津城・旧高取邸・曳山展示場」共通入場券は,大人1,000円
アクセス ・JR筑肥線「唐津駅」から徒歩約20分
展示の特徴 ・初代藩主・寺沢広高が1602(慶長7)年から7年の歳月を費やして完成させた平山城。
・北は海,東と南が川に囲まれた要害に位置しています。
・現在の天守閣は,天守台跡に文化観光施設として1966(昭和41)年に建築。
・第1層には,唐津城大手口を中心に当時の町並みをジオラマで再現。
・第2層には,唐津藩政の資料として,古地図や武具を展示。
・第3層では,唐津焼の常設展が行われています。
・最上の第5層からは,唐津湾,国指定特別名勝・虹ノ松原を一望できます。
URL http://web.people-i.ne.jp/~k-bunkashinko-j2/shiro.html ((財)唐津市文化振興財団のサイト)

本丸までの交通手段は,長い石の階段。
「どうしても…」という方には,エレベーター
(片道:大人100円,小人50円)もあります。

二の曲輪から見た天守閣。
大きくて高い石垣が印象的です。

天守閣第1層にある「ジオラマ唐津」。
手前が町人街の外曲輪に相当します。

天守閣展望台から見た唐津市街。
右の校庭は,2010年度開校予定の早稲田佐賀中高。

主な唐津藩主

 唐津藩主の家は,寺沢→大久保→松平→土井→水野→小笠原と頻繁に交替します。しかし,寺沢家以外は譜代大名だったこともあって,幕閣として活躍する人物,日本史に名を残した人物を複数輩出しています。たとえば……。
寺沢堅高 1609-1647年 広高の次男。関ヶ原における父の戦功で天草4万石が加増されるも,島原の乱後,その責任を問われて,同地を没収され,失意のうちに江戸藩邸で自殺。このために寺沢氏は断絶となり,藩領は幕領となる。
松平乗邑 1686-1746年 唐津藩主,鳥羽藩主,亀山藩主,淀藩主,大坂城代を経て,1723(享保8)年老中(佐倉藩主)に就任。勘定奉行神尾春央らとともに,享保の改革における年貢増徴政策を実施。
水野忠邦 1764-1851年 19歳で唐津6万石を襲封。幕府の要職に就くことを狙っていたが,唐津藩主は長崎警固役を課され,幕閣の一員となることができなかったので,浜松へ所替した。大坂城代,京都所司代,西ノ丸老中を経て,1834(天保5)年に本丸老中に就任。1841(天保12)年,11代将軍家斉の死後,天保の改革を実行。
小笠原長行 1822-1891年 世子ながら藩政を執って実績を残したことで,1862(文久2)年幕府の奏者番,続いて若年寄,老中格に進み,外国御用取扱を命ぜられる。1865(慶應元)年老中格に再任,老中に進む。第2次長州征伐では,九州方面監軍として小倉に移るも敗戦,小倉城を捨てて逃げ帰り,免職。その後,外国事務総裁に就くも,幕府瓦解のために免職。榎本武揚指揮下の旧幕艦隊に投じるも,のちに箱館を脱出,東京深川に閑居した。

小笠原長行,『福翁自伝』にも登場

 小笠原長行は,福澤諭吉著の『福翁自伝』にも登場します。
 生麦事件の処理をめぐって,「明日か明後日はいよいよ戦争の始まり,外に道はないと覚悟していたところが,ここに幸いなことがあるというのは,その時に唐津の殿様で小笠原壱岐守という閣老がある。…(中略)…いよいよ今日という日に,前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守が,ヒョイとその朝起きて,日本の軍艦に乗って品川沖を出て行く。…(中略)…壱岐守は本牧を回らずに横浜の方に這入って,自分の独断で即刻に償金を払うてしまった1)」と,攘夷の回避を評価しています。
1) 福澤諭吉(富田正文校訂)『新訂 福翁自伝』岩波書店,1978年,145頁。

からつ曳山展示場
観覧時間 9:00am-5:00pm
休館日 ・12月29日~12月31日
・12月第1火・水曜日
入場料 ・大人(15歳以上)300円
・小人(4歳以上15歳未満)150円
※「唐津城・旧高取邸・曳山展示場」共通入場券は,大人1,000円
アクセス ・西鉄天神大牟田線「西鉄柳川駅」からタクシーで10分,または川下りで約70分
展示の特徴 ・「唐津くんち」とは,唐津神社で開かれる秋季例大祭(11月2~4日)の一般的な総称。
・「供日(くにち)」を「くんち」と読むことから,収穫祭としての要素が強いといわれています。
・1819(文政2)年,刀町の赤獅子を皮切りに,1876(明治9)年まで15台の曳山(祭礼の山車)が奉納されました。
 (うち1台は,明治中期に損滅。)
・この祭礼時に使われる曳山を,1年中保管・展示しているのが,「曳山展示場」です。
・本物の曳山を見る満足感は,格別なものです。
URL http://web.people-i.ne.jp/~k-bunkashinko-j2/hikiyama.html ((財)唐津市文化振興財団のサイト)

1番曳山「赤獅子」は1819(文政2)年,
2番曳山「青獅子」は1824(文政7)年の製作。

14台の曳山は,「唐津くんち」になると,
それぞれ専用の扉から出て街を巡行していきます。

曳山の製作年代と物価との関係は?

 ここで,経済史研究者としての下らぬ思いつきに,ひとつお付き合い下さい。
 下表には,14台の曳山がいつ製作されたのか,その完成年代を掲げてみました。最も古いのが「赤獅子」で1819(文政2)年,最も新しいのが「鯱」と「七宝丸」で,ともに1876(明治9)年作です。この間,12台(うち1台は消滅)の曳山が奉納されましたが,その完成に至るまでの間隔は,けっして一定ではありません。とくに1840年代,60年代,70年代に集中しているのが理解できます。
 次に,その下のグラフをご覧ください。これは,徳川後期における大坂米価の推移を年ベースで100年以上にわたり,集計したものです。大坂と唐津藩内の米相場の関係性は定かではありませんが,少なくとも大坂中央市場と西日本の地方領国市場においては,高い相関性が既にこれまでの研究で確認されています。
 そうすると,曳山が製作された1840年代,60年代というのは,ともに米価の上昇期に相当します。また,グラフにはありませんが,1870年代というのも,通貨供給量の増大に伴う物価上昇期に該当します。
 単なる偶然といえば,それまでなのかもしれませんが,景気の善し悪し,地方経済の活況と,祭礼規模の拡幅は何らかの関係があるのかもしれません。(それを実証する唐津藩の良質な史料があるといいのですが…。)
1番 赤獅子 1819(文政2)年
2番 青獅子 1824(文政7)年
3番 亀と浦島太郎 1841(天保12)年
4番 源義経の兜 1844(天保15)年
5番 1845(弘化2)年
6番 鳳凰丸 1846(弘化3)年
7番 飛龍 1846(弘化3)年
8番 金獅子 1847(弘化4)年
9番 武田信玄の兜 1864(元治元)年
10番 上杉謙信の兜 1869(明治2)年
11番 酒呑童子と源頼光の兜 1869(明治2)年
12番 珠取獅子 1875(明治8)年
13番 1876(明治9)年
14番 七宝丸 1876(明治9)年

出典) 新保博『近世の物価と経済発展』東京経済新報社,1978年,付属統計表,340-345頁。

旧高取邸
開館時間 9:30am-5:00pm (入館は4:30pmまで)
休館日 ・月曜日(月曜日が祝祭日の場合は開館,翌日休館)
入館料 ・大人500円
・4歳~15歳未満250円
・音声ガイドシステム利用料300円
※「唐津城・旧高取邸・曳山展示場」共通入場券は,大人1,000円
アクセス ・JR筑肥線「唐津駅」から徒歩約15分
展示の特徴 ・杵島炭鉱の炭鉱主として知られる高取伊好(これよし)の邸宅。高取家より寄贈を受けた唐津市が保存・公開。
・唐津湾の海岸に面した2,300坪の敷地に,居室棟と大広間棟が連接しています。
・スケールはもちろんのこと,杉戸絵や欄間のデザインに,文化財としての高い評価が下されています。
・お座敷のなかに能舞台があるのも,特色のひとつです。
・ボランティア・ガイドの方が常に丁寧な説明をして下さるので,生の解説を聞くことをお薦めします。
・邸内は撮影厳禁となっていますので,ご留意ください。
高取伊好と岩崎彌太郎との関係
伊好の兄鶴田晧は,江戸の安積艮齋塾で岩崎彌太郎と同窓生,のちに出身地・多久藩の藩校文武館の教授に挙げられた。
伊好は,後藤象二郎の高島炭坑に勤め,三菱に経営が移ったあとも籍を置いていたが,1881(明治14)年8月に退社している。
【参考文献】
岩崎彌太郎岩崎彌之助伝記編纂会『岩崎彌太郎伝』上,1967年,223-224頁。
三菱会社『社員履歴』7(三菱史料館蔵,MA-1900)。

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2009年7月5日現在
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